フィリピンという国は日本からも比較的近く、日本人にとってなじみの深い国でもあります。そんなフィリピンに、49歳にして海外移住することを大決心した、日本人男性のエピソードです。フィリピンでの海外移住生活を送ることになったきっかけとは・・・
フィリピンへの海外移住を決めた背景
フィリピン共和国、成田空港から直行便で約5時間、日本から北海道を引いたぐらいの広さの太平洋に浮かぶ南の島。効用語はタガログ語と英語、国民の80%がカトリックで・・・ そ
う、当時の私はフィリピンという国についてこの程度のことしか知りませんでした。
そんな私が妻と2人でフィリピンに海外移住したきっかけと、フィリピンに暮らし始めた当時のマニラでのエピソードをお話したいと思います。外国での暮らし、それは私にとってまさに未知の出来事でした。
絶望的状況で湧いたフィリピン海外移住の話
2009年、昨年9月のリーマンショック以降、日本経済は不況の波にさらされ、工場の派遣労働者の大量解雇が話題になっていました。
ごたぶんに漏れず、地方の工場で派遣作業員として働いていた私は、すでに2ヶ月以上仕事を干され失業状態。毎日、近くの職安に通う毎日でした。
「田中さん、お歳は49歳?何か特別な資格はお持ちですか?」
職安の係り員はきのどくそうに私を見つめそう尋ねます。
「49歳じゃ、もう遅いですかね」 「ぎりぎりですね、若い人もたくさん職を探してますし・・」
当時の職安は仕事を求める人でごった返していました。当然若い人から順番に仕事が決まり、50歳前の中年男はただ求人票を眺めるだけです。
そんな絶望的な状況の中、振って沸いたように飛び込んできたのが、フィリピンへ海外移住する話でした。
フィリピン海外移住へのためらいと不安
「私のお母さんが入院するそうだけど、しばらくの間サリサリ(雑貨店)の仕事を手伝って欲しいって言ってるけどどうしようか」 ある日、フィリピンの実家との電話が終わった妻が失意の私にそう話しかけました。
私の妻はフィリピン人で、彼女が日本に出稼ぎに来ていた当時に知り合い、20年前に結婚しました。それ以来彼女はずっと日本で暮らしていて、フィリピンの実家にはもう5年以上帰っていなかったのです。
何ヶ月も失業中で、いまさら80に近い両親に泣きつくわけにもいかない私にとっては渡りに船のような気もしましたが、一度も行ったことのない異国の土地で、しかも満足に英語も話せないのにやっていけるのだろうかという不安と、日本を離れることへの寂しさで私は決断できませんでした。
第二の人生への決断
そんな私の気持ちを後押したのが、マニラに住む妻の親友の存在でした。
妻と彼女とはまだ彼女が日本にいる頃からの知り合いで、妻がフィリピンに帰ってくるかも知れないという話を聞いて、滞在ビザの手続きが終わるまで自分の家に泊まっていいと言ってくれたのです。
そして、もう後には引けない空気が流れ、私は第二の人生への決断をしたのです。それは福岡国際空港からフィリピン行きの飛行機に乗る1ヶ月前のことでした。
妻の親友マリアさんとマニラで
2009年9月1日午後9時頃、フィリピンの首都マニラのニノイ・アキノ空港に到着。到着ロビーで妻の親友マリアさん(仮名)と彼女のお嬢さん、それにマニラに住む妻の弟が待っていました。
「田中さんおしさしぶりねぇ~、大丈夫だった?」
マリアさんは流暢な日本語で私に話しかけてくれた後、妻と二人で手を取り合って再会を喜んでいます。
私が近くに立っていた妻の弟に「待ちましたか?」と下手くそな英語で問いかけますが、彼は通じているのかいないのか、ただニコニコ笑っているだけでした。
空港からマリアさんの自宅に向かう車の中で、運転していたマリアさんが私に声をかけます。
「田中さんどうですか、マニラの街は」
と尋ねられても、すれ違う車のほとんどは日産やトヨタばかり。まるで日本の町を走っているような感じです。
フィリピンに来たことをじわじわと実感
彼女の家はマニラ郊外の高級住宅街の中にあって、彼女と彼女のお嬢さん、それに彼女の両親の4人暮らし。
彼女のご主人は日本人で、やはり彼女が日本に出稼ぎに来ていた時に知り合ったのですが、お嬢さんがまだ小学校の頃にガンで亡くなったのです。
しかし彼は生前大手建設会社の役員をしていて、多額の財産を妻と娘に残したのでした。
高級住宅街の入り口には大きな鉄の門があって、ガードマンが2人立っていました。
マリアさんは慣れた様子で彼らに挨拶していましたが、私が内心びっくりしたのは、二人とも肩からライフル銃を下げていたことです。そんなにフィリピンって怖い国なのかなぁ、と思ったのですが、それがこの国の常識、いえ多くの国の常識だったのです。
フィリピン高所得者の暮らし
その後10日間ほど私と妻はマリアさんのお屋敷のゲストルームに滞在しました。いきなり大金持ちの暮らしです。
朝食は住み込みのメイドさんが部屋まで持ってきてくれるし、昼間はマニラの入国管理事務所で用事を済ませ、ついでに市内を観光。
すべて彼女のお抱えドライバーの運転です。夜はワインにフィリピンの高級料理、私に気を使って日本のお寿司もご馳走してくれました。
私はこのままこのお屋敷で暮らしたい気分でしたが、いつまでもお世話になるわけにも行かず、妻の故郷ナガに向かう長距離バスに乗り込んだのが、9月12日の夕方5時。
窓際の席に座っていた私に妻がこう話かけました。
「たいじょうぶ?私の実家は貧乏だから、マリアの家のようにはいかないからね」
本格的にフィリピン海外移住生活が幕開け
長距離バスは曲がりくねった山道を走り続けます。私の右も左もわからないフィリピンへの海外移住はこうして始まったのです。バスの窓から外を眺めると、眼下に鉛色の暗い海が広がっていました。
執筆者:ながとし(ペンネーム)
プロフィール:フィリピンのナガ市という地方都市の大学の近くで妻と二人で雑貨店と食堂を営んでいます。食堂のメニューは地元の学生に人気のカレーライスに親子どんぶり、焼肉定職と日本のB級グルメが中心。いつか彼らが日本に行った時、「あ、これ食べたことある!」と言ってくれるのが夢です。
コメント
はじめて、ひできと言います。ながとしさんのフィリピン移住の話初めて見させてもらいました、楽しくそしてとても勇気のある決断で感銘を受けました。今できれば私もフィリピンに移住しようか考えている最中で少し勇気をもらいました。できれば色々と教えていただきたいです。