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歴史上初外国で活躍した日本人、阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)

日本の歴史で有名な、かの聖徳太子が西暦600年から何度も派遣したという「遣隋使」は、わずか38年で隋が滅び、唐の時代に入ってからも「遣唐使」と名前を変えて大陸へと派遣されていきます。

その後西暦700年頃の唐は、勢力を広げてますます発展していき、首都である“長安”は国内だけではなくインドやアラビア地方、ペルシャやチベット、さらには東ローマなどのさまざまな国の人々が集まる国際交流都市として大いに賑わっていたとされています。

今回は、そんな時代に遣唐使として派遣された「阿倍仲麻呂」をご紹介しましょう。

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阿倍仲麻呂とはどんな人物?

遣唐使船

阿倍仲麻呂は西暦698年、大和国(今の奈良)に生まれました。父親の阿倍船守(あべのふなもり)は大宝律令の「中務省(なかつかさしょう)」と呼ばれる朝廷での要職に就く官僚で、有力な氏族。その長男として生まれた仲麻呂は裕福で恵まれた家庭で育ったと考えられています。

そのような環境にあったため仲麻呂自身も望めば朝廷で要職に就き出世することもできたのですが、幼いころから学才豊かだった仲麻呂は異国の文化や学問に興味を持ち、留学生として「遣唐使」に参加することを望みました。

そこで、西暦717年の第9次遣唐使の留学生として、わずか16歳(一説では19歳)といういずれにしても10代という若さで奈良時代の学者「吉備真備(きびのまきび)」や、奈良時代の僧「玄昉(げんぼう)」などと共に唐に渡り、首都過去“長安”に留学することになりました。

唐で才能を開花させた阿倍仲麻呂

中国語

念願の長安に留学した仲麻呂は、当時の中国・朝鮮・ベトナムに設立され官僚を養成するための教育機関である「太学(たいがく)」に入学。さまざまなカリキュラムを習得して官僚を登用するための国家公務員試験にあたる「科挙」の受験資格を得ることができたのです。

当時の科挙試験では、「進士科」と「明経科」という2種類があったのですが、競争率は非常に激しく「進士科」では合格者がわずか1~2%、「明経科」では合格率が 10~20%という超難関の試験だったようです。そんなわけで、試験の重圧から精神障害や過労死に追い込まれた人、いつまでも合格できず自殺した人もいたとされています。

そんな超難関試験の中でもさらに難しい「進士科」の合格者は年間わずか30名ほど。一生トライし続けても合格できない人も多かった中、阿倍仲麻呂は20代半ばで合格したといわれています。

母国語で勉強してもなかなか合格できない人が多いなかで、留学生でありながら合格できた阿倍仲麻呂がいかに秀才であったかが分かりますね。

阿倍仲麻呂、エリート官僚の道へ

平城京

さて、見事「進士科」に合格した仲麻呂は、記録によると西暦721年(別の説では725年)に「左春坊司経局校書(さしゅんぼうしけいきょくこうしょ)」という役職に任官されたとされています。この「左春坊」とは皇太子の家政機関のことで「司経局校書」はそこの蔵書を管理し、高官の文筆を補佐する書記官という役割を果たしていたと考えられています。

こうして仲麻呂は唐の第9代皇帝「玄宗(げんそう)」に仕え、朝廷でのキャリアを積み重ねていきます。さらに、「阿倍仲麻呂」という名前も、唐に来た当初は「仲満(ちゅうまん)」、その後「朝衡(ちょうこう)・〈晁衡とも書く〉」と改め、唐の朝廷でエリート官僚として出世していくのです。

さらに仲麻呂は、学問だけでなく歌人としての才能にも恵まれ、中国最大の詩人といわれた李白(りはく)や杜甫(とほ)、王維(おうい)といった著名な文化人たちとも親しく交遊し、詩人・儲光羲(ちょ こうぎ)は詩の中で仲麻呂について「容姿が美しく才識が豊か」だと称賛しています。

その後、西暦727年(一説では728年)には皇帝のそばに仕え、皇帝の過失を諫める側近「左拾遺(さしゅうい)」の任命を受け、続いて731年には「左補闕(さほけつ)」という、皇帝に諫言をする専門職任命され第9代皇帝「玄宗(げんそう)」の強い信任を得るようになりました。

帰国かなわず唐に留まる

太平洋

西暦733年、第10次遣唐使が長安にやってきました。仲麻呂はこれまでに唐で学んだ知識や儒教の教えなどを日本へ持ち帰るために帰国したいと申し出ます。ところが、玄宗は信頼する優秀な官僚である仲麻呂を引き留め帰国を許しませんでした。

その後も着々と出世していった仲麻呂でしたが、ようやく帰国の願いが聞き入れられ、西暦753年の第12次遣唐使で日本へ帰ることを許されたのです。

この時の仲麻呂の役職は「秘書監」という大臣職で、皇室の書物の管理・運営を司る長官でした。この時の遣唐大使だった「藤原清河」の依頼で“戒律の僧”として高名な鑑真(がんじん)と面会して渡日を依頼。こうして鑑真たちと共に帰国することになったのです。

4隻で帰路に向かうものの、途中で仲麻呂が乗る船は暴風雨に遭って安南(今のベトナム)に漂着し再び唐へ戻ることになりました。(そのうち鑑真の乗った船は日本へたどり着きました)その後も仲麻呂は唐の地で官僚として仕え続け、日本に帰国することが叶わぬまま70歳で生涯を終えたのです。

真の国際人だった阿倍仲麻呂

いかがでしたか? 今回は、今から1300年ものはるか昔に海を渡り、異国の地で才能を認められ大活躍した秀才「阿倍仲麻呂」をご紹介しました。今でこそ“グローバル社会”といわれ、様々な分野において海外で活躍する人が大勢いますが、阿倍仲麻呂のような先人がいたからこそ今の日本があり、私たちが存在できているのでしょう。

興味深いのは、阿倍仲麻呂がただ頭の良い秀才だっただけではなく、李白や杜甫など当時の名だたる詩人たちと交友を持つ「歌人」でもあったことです。このような文化交流を通して本当の意味での信頼関係を築いていったのでしょう。

念願の帰国を果たすことはできませんでしたが、唐の地で多くの人に惜しまれながらその生涯を閉じた阿倍仲麻呂。百人一首でも有名な「天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも」という句は、遠く離れた異国の地で月を見ながら故郷を偲んだ歌だといわれています。

私たちもこの機会にいにしえの彼の功績に思いを馳せてみてはいかがでしょうか?

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