日本資本主義の父、渋沢栄一

日々のニュースを見ると、企業の「データ改ざん」や「粉飾決済」、「インサイダー取引」といった不正事件が日本国内だけでなく海外でも何度も報道されています。これらは「もっと利益を増やしたい」という企業側の欲求が行き過ぎるあまり、不正行為へと暴走してしまうのでしょう。

そんな昨今、“日本資本主義の父”と呼ばれ、「論語」に基づいた経営理念を推奨した「渋沢栄一」の功績が改めて見直されているのをご存知でしたか? 

「渋沢栄一って誰?」と思う人も多いかもしれません。今回は、“経営活動と道徳”、相反する理念を両立させた「渋沢栄一」という人物をご紹介しましょう。

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渋沢栄一の生い立ち

渋沢栄一生家

1840年(天保11年)、武蔵国榛沢郡(今の埼玉県深谷市)の農家の息子として誕生しました。

農家といっても米や麦の栽培だけでなく、養蚕や藍の栽培、さらに藍を栽培している他の農家から藍を購入して藍玉を製造し染物屋さんに販売する、という農業だけでなく商業的な家業をしていました。

父親はとても教育熱心だったため栄一は幼い頃から学問を学び、7歳には従兄で学者の尾高惇忠(おだかあつただ)に師事。漢学や儒教を学びながら家業を手伝うようになりました。なかでも藍玉の販売やその原料の仕入れなどの手伝いを通して、商業的な素質が築かれたようです。

尊王攘夷から幕臣へ

渋沢栄一像

家業の手伝いと勉学に加えて剣術も学んでいた栄一でしたが、22歳の時に江戸へ出て有名な儒学者である海保漁村(かいほぎょそん)の門下生として、さらに儒学を学ぶと同時に剣術の道場に入門。

そこでの交遊から「尊王攘夷思想」の影響を受けた栄一は、1863年に横浜の外国人居留地を焼き討ちにする計画を立て、高崎城を乗っ取って武器を強奪する計画まで立てます。まさに実行しようとする直前、親族の必死の説得によって計画を断念し京都へ行きます。

京都では知り合いの紹介で一橋家の家臣として仕えることになるのです。渋沢栄一は、一橋家で財政を担当したのですが、歩兵の募集・編隊、財政改革など幼少からの商才を発揮して大いに活躍し、主君である慶喜の信頼も厚くなっていったそうです。

そして、1867年、慶喜が将軍となったことで、かつて攘夷派だった渋沢栄一は、一転して幕臣として徳川慶喜に仕えることになったのです。

パリ万国博覧会と欧州巡歴

パリ、エッフェル塔

1867年フランス公使からの要請で、パリで開かれる万国博覧会に日本からも出席するようにとの招待があり、将軍徳川慶喜は弟の徳川昭武(あきたけ)を派遣することにします。この時、幕府からの随行員の一人として渋沢栄一は財務担当である「御勘定役」として同行。

その後もイタリア・イギリス・スイス・ベルギーなどヨーロッパ各国を視察します。こうしてフランスを始めヨーロッパでの体験は、渋沢栄一にとって驚きの連続で、電灯や蒸気機関車など最新の技術や、紡績工場・鉄工所・水運業などの産業などを見て感銘を受けます。

さらに、このような大規模な事業を行うために、銀行や証券会社が資金を集め、株式会社が利益を分配するシステムがあることに特に関心を示します。

なかでも衝撃を受けたのは、ヨーロッパで「商人」である銀行家が軍人と対等に交渉している姿だったといいます。当時の日本では考えられない光景でした。このように産業や経済の発展が結果的にお金を生み出し、政府や軍が運営できる仕組みを日本にも取り入れたい、と渋沢栄一は決心します。

日本資本主義の父へ

日本銀行

パリ万国博覧会後もヨーロッパ各地を視察していた一行でしたが、その期間中に「大政奉還」があり一行は帰国することになります。

渋沢栄一は、静岡藩に移り住んだ徳川慶喜のもとで尽力し、まずヨーロッパで学んだ株式会社の概念を日本の文化にアレンジして「静岡商法会所」と呼ばれる日本初の合本組織(株式)を静岡に設立。

藩の資金を資本に、現金貸し付けや預金の受付といった銀行業務と、米殻・肥料の買い付け、製茶・養蚕業のための資金貸与といった商社業務を組み合わせたもので、その仕組みは大成功。地域経済を発展させることに大いに貢献しました。このことから、後年「日本の資本主義の父」と言われることになるのです。

その頃、新しい明治政府は新しい国づくりのための優秀な人材を必要としていたため、静岡藩での渋沢栄一のはたらきを知った政府は、渋沢栄一を「租税正」という役職に就くよう要請したのですが、渋沢栄一はなかなか首を縦に振らなかったといいます。

最終的には当時の大蔵卿(今の財務大臣)大隈重信の説得で大蔵省に入省します。大蔵省では、財政改革、貨幣単位の統一、銀行制度の立ち上げなどを行うのですが、富国強兵を推し進めたい外務省からの圧力と対立から33歳で大蔵省を辞める決意をします。

「論語」と「経済」の両立へ

中国語

大蔵省を辞任した渋沢栄一は、民間人として自由に実業家の道を歩み始めます。

まず、日本初の銀行「第一国立銀行(現在のみずほ銀行に当たる)」を設立し、頭取という立場で多くの銀行や株式会社を設立。王子製紙・新日本製鉄・日本郵船・東京海上保険・サッポロビール・東洋紡績・帝国ホテル・清水建設・・・など、なんと500社以上の企業創立と発展に貢献しました。

また、現在の東京商工会議所や東京証券取引所も設立し、近代日本の資本主義の基礎を築きました。

このように実業家として大成功を収めていく渋沢栄一ですが、彼の経営理念は幼少の頃より学んだ「論語」の精神に基づき、自己本位の儲け主義ではなく「公益」も考えた経済活動を行うこと。その考えから学校設立や養護院・結核予防協会などの福祉施設の設立、病院設立など社会事業に関連した600ほどの社会公共事業も積極的に行いました。

こうして数々の事業によって人々の生活を経済的豊かなものにしながらも利益をもたらすものとする「論語と経済の両立」を実践していったのです。

改めて見直される渋沢栄一の精神

東京夜景

渋沢栄一の経済理念は「事業と道徳の一致」。儲け第一主義の経営ではなく、公益の追求を通して自分の利益を得るという考え方でした。

さらに、「誠実第一」の商売を徹底し、嘘や不正を一切行わず正直な経営を実践することによって、安定した利益を得ることができると主張しました。実際、不正や不誠実な経営は一時的に莫大な利益をもたらすかもしれませんが、そのような利益は持続せず企業の存続を脅かすことさえあることは過去の事例で次々に明らかになっています。

幕末から明治にかけて激動の時代を駆け抜けた渋沢栄一の経営理念は、日本の資本主義の礎を築いただけでなく、現代にも通じる経営の在り方の手本となっているのです。経営者はどうしても「もっと儲けたい!」という気持ちになるものですが、渋沢栄一の生き方を改めて参考にしたいものですね。

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