戦争嫌いでありながら真珠湾攻撃の計画者、山本五十六(いそろく)

近年になって、映画や書籍に取り上げられ「戦争嫌いの軍人」といわれた山本五十六。第二次世界大戦の際には総合艦隊司令官として名を馳せた名将です。「何をした人かは詳しく知らないけれど名前は知っている・・・」という人も多いかもしれません。

それにしても戦争嫌いなのに軍人、というのも不思議ですよね? 今回は、軍人だった山本五十六が戦争に反対したいきさつと、彼の生涯をご紹介します。

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山本五十六の生い立ち

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山本五十六(いそろく)は1884年(明治17年)、新潟県古志郡(こしぐん)長岡本町(今の長岡市坂之上町)、旧越後長岡藩の藩士だった高野貞吉(たかのさだよし)の六男として誕生しました。

「五十六」というユニークな名前は、父親が56歳の時に生まれたことから付けられたといわれています。ずいぶん高齢になって生まれたのですね。ちなみに母親も45歳と高齢出産だったようです。

五十六は子供の頃から相当負けず嫌いだったといいます。尋常小学校、ついで中学校を卒業した1901年(明治34年)、五十六は親の薦めもあって海軍兵学校に入学します。

1904年(明治37年)には優秀な成績で卒業。時は日露戦争の最中であり、五十六は「少尉候補生」として装甲巡洋艦「日進」に配属され日本海海戦に参加。左手指と左大腿部に大変な重傷を負いましたが奇跡的に回復。その後も様々な軍艦で任務を果たしました。

軍人としての山本五十六

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大怪我から回復後、様々な軍艦での任務を果たしながらも五十六は「海軍砲術学校」で16ヶ月、「海軍水雷学校」で4ヶ月の教育を受けて軍人としての基礎を積み上げていくのです。それだけでなく1913年(大正2年)には、海軍の幹部となるために「海軍大学校」に入学。その頃五十六の両親が亡くなります。

これまで、高野家の六男だった五十六でしたが1915年(大正4年)には、旧長岡藩家老であった山本家を継ぐことになり「高野五十六」から今日知られる「山本五十六」となりました。

その後1916年(大正5年)には「海軍大学校」を卒業し、海軍エリート士官になるのです。1919年にはアメリカ駐在武官として配属され、ハーバード大学に留学します。その間に日本とアメリカとの物資量の圧倒的な差を知り、アメリカの石油開発や自動車・飛行機産業について調査したといいます。

またこの時代に、日本での海軍航空開発の第一人者とされる駐米海軍武官「上田良武大佐」と親交を深め、航空機に着目するきっかけになったといわれています。その後、イギリスを経由して日本へ帰国した後も再びアメリカへ駐在。

帰国後には空母の艦長として就任。海軍航空本部技術部長~海軍航空本部長~海軍次官、と次々にエリートコースを歩んでいくのです。

戦争に反対する軍人・山本五十六

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こうして順調に出世コースを歩んできた五十六でしたが、これまでの何度かのアメリカ駐在やイギリスでの軍縮会議への参加などを通して、アメリカやイギリスの産業力、工業力など日本との圧倒的な国力の差を目の当たりにしたことから、日本の実力を客観的に見ることができる数少ない軍人の一人となりました。

そんなわけで、早い段階から航空戦力の強化を推進し、戦闘機を海軍の中心的な兵器にするために尽くしました。

さらに1939年(昭和14年)、日本・ドイツ・イタリアとの「三国同盟」の締結に向けて揺れていた状況下で、山本五十六は「日独伊三国同盟」の締結は、アメリカを刺激することになり国力・軍事力の点で圧倒的な差があるアメリカとの戦争を招くことになると考えて強硬に反対します。

このような五十六の「三国同盟」反対の姿勢は、同盟を促進したい陸軍からの圧力を招き、さらには右翼からの脅迫や暗殺計画に遭いながらも揺らぐことはありませんでした。

ところが五十六たちの反対も虚しく、翌年の1940年(昭和15年)に「日独伊三国同盟」が締結され、とうとう日本は戦争への道を進むことになるのです。しかも五十六は1939年に第26代連合艦隊司令長官という役職についていたため、戦争に反対してきた本人が戦隊の指揮を執るという皮肉が生じるのです。

真珠湾攻撃へ

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最後までアメリカやイギリスとの戦争に反対してきた五十六でしたが、「連合艦隊司令長官」という立場にある以上、指揮を取らざるを得なくなったのです。そこで五十六は、「戦争が避けられないのなら短期間で勝利して早い段階で和解したい」と考えます。

これまでのアメリカやイギリスでの任務を通して、アメリカ・イギリスの国力・軍事力を誰よりも知っていた五十六は、開戦と同時に当時有利だった航空力を使った攻撃で主力艦隊を猛撃し、アメリカの戦意を喪失させるしかないと考えたのです。

計画は入念に組まれ、アメリカへの開戦通告の30分後に真珠湾に総攻撃を仕掛けることが決まります。こうして1941年(昭和14年)12月8日、ハワイの真珠湾に集結していた太平洋艦隊と基地に向けて奇襲攻撃を仕掛け、戦争の口火が切られることになるのです。

この時の犠牲者は、日本側は約60人、アメリカ側は約2400人。まさに圧倒的な戦果を上げました。ところが、ここで誤算が生じるのです。

真珠湾攻撃の30分前に届くはずの開戦通告が、駐米日本大使館の不手際によってアメリカ側に伝わったのが攻撃の後になってしまったのです。そんなわけで真珠湾攻撃が「卑怯なだまし討ち」だと認識されることになり、アメリカに火をつけるような結果になってしまいます。

こうしてその後のミッドウェー海戦で敗北。その後も戦況が悪化していき、1943年(昭和18年)年4月18日、山本五十六はブーゲンビル島の上空で搭乗機が攻撃を受けて墜落。60歳の生涯を終えたのです。

生涯をかけて信念を貫き通した山本五十六

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いかがでしたか? 今回は山本五十六の生涯をご紹介しました。

若い時に海軍に入り海軍士官としてエリートコースを歩んできた山本五十六の戦争に対する考え方は、駐米武官としてのアメリカ滞在中に衝撃を受けたアメリカの産業力や工業力、石油開発などを視察してきたことから形作られたものだったのでしょう。

日本国内が戦争への道に進み始めた時でも、世界情勢からみた日本の本当の実力を正しく評価していたからこそ、誰よりも戦争に反対したのです。こうして戦争に反対した山本五十六に対して、当時の日本では「臆病者だ」「国賊」だといわれ命さえ狙われることになりましたが、彼は最後まで戦争反対の信念を貫き通しました。

願いも虚しく情勢は五十六の思いとは反対に戦争に進みましたが、「被害を最小限にしたい・・・」という願いは最後まで持ち続けたのでしょう。そのための苦肉の策ともいえる「真珠湾攻撃」が、手違いによりかえってアメリカに火をつけてしまったのは何とも皮肉なことですね。

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