皆さん、野口英世をご存知ですか? 彼の功績を知っているというよりも、千円札に描かれている肖像画を毎日目にしているかもしれませんね。
子供向けの伝記本などを一度は読んだことがある人も多いことでしょう。
多くの人が持っているイメージとしては、「一所懸命勉学に励んで海外に渡り、黄熱病の研究に命をささげた偉人」かもしれません。実は、野口英世には知られざる一面もあったようですよ。今回は、そんな野口英世の生涯をご紹介します。
野口英世の生い立ち
野口英世は1876年(明治9年)、福島県耶麻郡三ツ和村(今の猪苗代町)という自然豊かな田舎の貧しい農家の子として誕生しました。幼名は「清作(せいさく)」。ところが清作は、わずか一歳の時に囲炉裏に落ちて左手に大やけどを負ってしまいます。
母親の「シカ」は必死で看病したのですが、左手の指同士がくっついて内側に曲がった状態で癒着してしまうという酷い障害が残ります。
「シカ」は、そんな我が子の左手のやけどを自分の不注意のせいだと後悔し、その手では農業ができないため、代わりに学問で身を立てることができるようにと必死で働きます。こうして清作は、当時お金持ちしか通うことができない小学校へ通うことができるようになったのです。
実際に学校へ通い始めると、貧しい生まれと左手のハンディキャップから同級生たちのいじめに遭い、清作にとって非常に辛い時期があったようです。
それでも清作は、母親からの励ましと負けん気の強さから勉強に励み、小学校で優秀な成績を収めるようになるのです。小学校を卒業した後の清作は、貧しかったために進学したくても学費を払うことが難しかったのですが、優秀さが猪苗代高等小学校の教頭だった「小林栄」先生の目に留まり、先生の資金援助によって清作は高等小学校へ進学できることになりました。
医学を目指す
恩師・小林栄先生の支えや励ましによって高等小学校でも一生懸命勉学に励んだ清作は、在学中に自分の左手のハンディキャップについての辛い気持ちを作文に書きました。それを読んだ小林栄や他の教師たち、また生徒たちは清作の境遇に同情し、清作が左手の手術を受けられるように募金します。
こうして資金が集まり、当時アメリカ帰りの医師「渡部鼎(わたなべかなえ)」の手術を受けることができたのです。このとき清作は、医者という仕事に感動し自分も将来医者になりたいと考えるようになったといいます。
そして高等小学校を卒業後には手術をしてくれた医師・渡部鼎の病院に住み込みで働き、医学の基礎を学んだのです。
さらにその間にドイツ語・英語・フランス語をマスター。語学に関しても非常に覚えが早く、一度辞書で調べた語彙は二度調べる必要がなかったほどだそうです。すごいですね!
約3年半の間、渡部鼎先生の医院で医学や語学を学んだ清作は19歳の時、医師免許を取るために上京します。
上京してからは「渡辺鼎」の医院で知り合った歯科医・血脇守之助(ちわきもりのすけ)の世話になりながら、超難関という医師免許の試験を1回で合格し医師免許を取得することができます。
とはいっても、開業医として医院を構える資金もなく、左手も手術したとはいえ不自由だったため、開業医ではなく研究者としての道を目指します。この頃に「清作」から「英世」へ改名しました。
知られざる野口英世の一面をご紹介
負けん気が強く頭脳優秀で、真面目な努力家として有名な野口英世ですが、その反面お金に非常にルーズで、まとまったお金が入るとすぐにお酒や遊廓での豪遊であっという間に使い果たしてして金欠になる。さらにお金を借りても返さない、ということでも有名です。
野口英世の恩人・小林栄や、歯科医師・血脇守之助は、貧乏でも才能がある野口英世を援助するために何度も金銭的援助をしていますが、その度に英世の放蕩でお金を使い込まれるのです。
そんな英世の金銭感覚に振り回されながらも彼らは英世を見放すことなく、ずっと援助を続けています。それだけ英世の才能に惚れ込んでいたのでしょうか? またそんなルーズさを上回る人間的な魅力が野口英世にあったのでしょうか?
なんとも不思議ですが、彼らの援助のおかげで野口英世は才能を発揮して、後世に残る功績を残せたといっても過言ではありません。
日本から世界のドクター・ノグチへ
さて、研究者となった野口英世は、当時医学会で有名な北里柴三郎が所長を務める「伝染病研究所」の助手として勤め始めます。そこで横浜の海港検疫官として横浜港に入港した船でペスト菌を検出。その功績から「国際防疫班」に選ばれ清国でのペスト対策に派遣されることが決まります。
ところがまたもや支給された支度金を放蕩で使い果たしますが、血脇守之助の援助で無事に渡航し任務を果たすことができました。その後、1900年(明治33年)には念願のアメリカへ渡ることができます。
アメリカではペンシルベニア大学医学部の助手として、蛇毒の研究と論文によりアメリカの医学界で名を知られるようになります。
その後も梅毒の研究や、エクアドルでの黄熱病(実際はワイル病)の収束、ペルーでの「オロヤ熱」と「ペルー疣(イボ)」が同じバルトネラ症であることを発見、アフリカでの黄熱病の研究・・・と、自身が黄熱病に感染して51年の生涯を終えるまで、異国の地でさまざまな研究をしたのです。
彼が残した論文は200近くあるといわれています。
努力した天才-野口英世
野口英世が発表した研究成果の中には、毒蛇の研究による血清や梅毒の研究、ワイル病の感染症の発見などの功績がある一方で、小児麻痺や狂犬病の病原体など、後年になって電子顕微鏡などの技術が向上したことによりウイルスが原因であったことが判明し、彼の発表が否定されたものもありました。
それでも医学に関する情熱は人一倍強かったため、野口英世がアメリカで研究した「ロックフェラー医学研究所」の同僚たちは、1日3時間ほどしか睡眠を取らずに研究に没頭した野口英世を見て、「日本人は2日に1回しか眠らなくていいのだ」と噂したといいます。今の私たちには考えられないほど壮絶な研究姿勢だったのですね!
こうして野口英世の生涯を振り返ると、努力家で研究熱心だった半面、お酒や遊びですぐにお金を使い果たし借金ばかりしていた、というエピソードも多く、偉人としては少し特異な人物像が浮かび上がってきます。今度千円札を見る時には、そんな彼の人柄に思いを馳せてみてはいかがでしょうか?