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初めてアメリカ市民権を得た日本人、 浜田彦蔵(ひこすけ)(ジョセフ・ヒコ)

海を渡った私たちの先輩

私たちにとっては毎日の習慣のように読んでいる「新聞」ですが、新聞がいつから発行されるようになったのか、だれが始めたのかを考えたことがありますか? 実は「新聞の父」と呼ばれているのは「ジョセフ・ヒコ」という人物です。

「え?そんな人知らない・・・」という人も多いことでしょう。そこで今回は「ジョセフ・ヒコ」の生涯と人物像について振り返ってみましょう。

ジョセフ・ヒコの生い立ち

ジョセフ・ヒコは、本名 浜田 彦蔵(はまだひこぞう)、幼い時には彦太郎と呼ばれていました。天保8年(1837年)、播磨国(今の兵庫県)加古郡古宮村(今の播磨町古宮)に生まれました。

彦太郎が生まれてすぐに父親が亡くなり、その後母親が再婚。養父は船乗りだったため彦太郎も同じ道を歩みたかったのですが、母親は彦太郎が危険の伴う仕事に就くことに反対していたといいます。そんな母親も彦太郎が13歳の時に亡くなってしまいます。

その後、“栄力丸(えいりきまる)”という船で江戸へ向かう途中で紀伊半島の沖合で嵐のために難破。太平洋を52日間も漂流してしまうのです。こうして南鳥島付近を漂っていたところでアメリカの商船オークランド号に発見され、彦太郎を含む17人が救助されました。

再びサンフランシスコへ!

こうして九死に一生を得た彦太郎たち“栄力丸”の乗組員17人は、鎖国中の日本へそのまま帰国することができず、救助してくれたオークランド号でサンフランシスコへ行くことになります。

アメリカ政府はまだ国交がなかった日本に開国を迫るための切り札として、救助した17人を日本へ帰還させようという思惑があったようで、10ヶ月のサンフランシスコ滞在の後、香港でペリーの艦隊に合流し日本へ帰ることになっていました。

こうして香港でペリー艦隊の到着を待っていたのですが、何か月待っても到着しません。そんな時に「アメリカへ戻らないか」と誘われた彦太郎は再びサンフランシスコへ戻るという決断をしたのです!

こうして再びサンフランシスコに戻った彦太郎は15歳でした。そんな彦太郎を我が子のように可愛がってくれたのが、現地の税関長で起業家でもあったサンダースでした。

サンダースは彦太郎にボルチモアのミッションスクールでの教育を受けられるように援助。英語や算数などの学力だけでなく、社会制度や政治などの幅広い知識を身に付けたのです。さらに18歳の時には洗礼を受けて「ジョセフ・ヒコ」と改名しました。

そして1858年には、日本人として初のアメリカ市民権を取得しました。日本へ戻ってアメリカで得た知識を伝えたいと考えたジョセフ・ヒコにとって、キリシタンを弾圧する日本へ帰国するためにはアメリカ国籍を得ることが必要だったのです。

ジョセフ・ヒコ、日本へ帰国

ジョセフ・ヒコがアメリカで英語を始め多くの知識を得て、アメリカの最新の技術(ガス灯・汽車・電信)を見たり、日本人として初めてアメリカ大統領と会見したりする機会を得た間に、日本もようやく開国し「日米和親条約」が締結され、ジョセフ・ヒコも日本へ帰国するチャンスが訪れます。

この時の初代駐日総領事ハリスと一緒に、1859年、神奈川にあるアメリカ総領事館の通訳として9年ぶりに日本へ帰国したのです。ジョセフ・ヒコ22歳のときでした。

こうして、ようやく日本へ帰国したジョセフ・ヒコは通訳として大いに活躍したのですが、当時の日本は攘夷派が蔓延しており、外国人だけでなくアメリカに帰化したジョセフ・ヒコも命を狙われるようになります。身の危険を感じたジョセフ・ヒコは1861年にやむなくアメリカへ戻ることになりました。

日本初の“海外新聞”を発行

日本での命の危険を感じてアメリカへ戻ってきたジョセフ・ヒコは、当時の大統領リンカーンと会見する機会を得ます。

こうしてアメリカに戻ったものの、やはり故国に対する気持ちが強かったようです。1862年には、再び日本へ帰国しもう一度アメリカ領事館の通訳に職に就いたのですが、すぐに辞めて横浜の外国人居留地で商社を開き「貿易商」として働きはじめます。

そのころのアメリカは南北戦争中で、1863年11月19日には、リンカーン大統領の有名な「人民の人民による人民のための政治」という演説があり、翌日に新聞でアメリカ全土の国民が知ることとなります。これを知ったジョセフ・ヒコは「日本でも新聞が必要だ、民衆も事実を知らなければならない」と強く感じるようになったのです。

当時の日本では幕府が情報を統制していたため、幕府からは厳しく監視されており、攘夷派からはアメリカのスパイのように扱われ命を狙われる危険と隣り合わせでした。それでもジョセフ・ヒコは協力者と共に作業を進め、1864年6月28日に日本初民間の「新聞誌」を発行したのです!

この新聞誌は、先進国アメリカ・オランダ・イタリアなど海外の事件や、政治・経済情報が書かれているだけでなく、これらの国々の自由な考え方や風土を伝え世界の流れを正確に伝えていたといいます。こうしてジョセフ・ヒコは「新聞の父」と呼ばれるようになったのです。

国際化に貢献したジョセフ・ヒコ

いかがでしたか? 今回は、それほど名前が知られていない人物、浜田彦蔵(ジョセフ・ヒコ)についてまとめました。

幕末から明治時代という激動の時代に生きた「ジョセフ・ヒコ」。しかも、子どもの頃に遭難・漂流してアメリカ船に救出され、九死に一生を得てアメリカの文化を学び始めてアメリカの市民権を得る、という日本人初の経験までしています。

これらの経験を活かし、開国して間もない日本ではまだまだ庶民に情報が与えられないこと、アメリカでの新聞のチカラを目の当たりにした「ジョセフ・ヒコ」は、海外のニュースだけでなく民主主義の自由な考え方や様子を新聞に載せて、多くの人々に影響を与えました。

また、明治維新のリーダーとなった木戸考充や伊藤博文たちにも、アメリカの民主主義の理念を伝えたようです。 まさに、海外と日本の架け橋のようなはたらきだったと言えるのではないでしょうか。

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