有名な画家ピカソやシャガール、マティスなど名だたる画家と並び、同時代にフランスで最も有名な日本人といわれた画家、藤田嗣治(つぐはる)をご存知ですか?
オカッパ頭に丸メガネ、派手なファッションで有名な見た目が印象に残っている人もいるかもしれません。
現在では日本でもその作品の素晴らしさが認められているものの、当時の日本では受け入れられなかったといいます。そんな藤田嗣治の生涯について振り返ってみました。
藤田嗣治(つぐはる)の生い立ち
藤田 嗣治(ふじたつぐはる)は1886年(明治19年)、東京牛込で父親が元家老の家柄、当時の陸軍軍医という名家の次男として誕生しました。
代々続く名門の家柄で父親が軍医だったことから、親からは医者になることが期待されていたようですが、子どもの頃から絵を描くのが好きだった嗣治は14歳の時、父親に画家になりたいと伝えます。すると父親は嗣治に大金を渡し、東京美術学校の洋画科に入学することを認めたといいます。父親も芸術に対する理解があったようですね。
こうして東京美術学校へ入学した嗣治でしたが、当時の日本ではフランス帰りの「黒田清輝」を中心とする派閥が存在しており、“外光派”と呼ばれる明るい色彩を主流とした絵が盛んで、あくまでも“自分流”にこだわる嗣治の画風は異端扱いされ全く評価されなかったようです。
活躍の場を求めてフランスへ
東京美術学校時代には全く評価されなかった藤田嗣治でしたが、中学校時代14歳の時に彼の水彩画が中学生代表作として、1900年のパリ万博に出展されています。そんな経験からか、東京美術学校を卒業した嗣治は、自分流の絵を追求するため単身フランスへと旅立つのです。
フランスに着いた嗣治は、パリのモンパルナスという貧しい画家の卵たちが多く住む地域に住み始めます。モディリアーニやシャガールたちと親しくなり、ピカソからの刺激を得ながらも他人の真似をしないオリジナルの画風を追求したのです。
こうして試行錯誤の結果、1919年には「サロン・ドートンヌ」に出品した6点の作品すべてが入賞したのです。それは嗣治が33歳のときです。その後も次々と独自の作品を発表しパリの画壇を驚かせます。
特に評価されたのが「乳白色の肌」。これは浮世絵からヒントを得たといわれています。このように、人の模倣をするのではなく“日本画”の技法と“油彩画”という枠にとらわれない独自の表現方法で、フランス画壇での知名度と人気を確立していきました。
日本への凱旋帰国
こうしてフランスで大脚光を浴び絶大な人気を得た嗣治は、1929年展覧会を開くため16年ぶりに日本へ帰国します。日本では大いに歓迎された嗣治でしたが、日本画壇からは妬みや彼の独特のスタイルが評価されず、ガッカリしてフランスへと帰国しました。
その後1931年には南米に向かい個展を開き大成功を治めています。その後の1933年には再び日本へ帰国。いよいよ日本を拠点に創作活動を始めたのですが、時は動乱の時期で日本は戦争へと突入していき、1938年には従軍画家として中国で戦争画を描くことを余儀なくされるのです。
しかし翌年には突然フランスへ旅立った嗣治でしたが、第二次世界大戦に巻き込まれ再び日本へと帰国するのです。帰国後は「陸軍美術協会理事長」として戦争画の制作に没頭し多くの作品を残したのですが、1945年に日本が敗戦すると日本美術界は戦争責任を藤田嗣治一人に負わせ彼を激しく批判したのです。
故国との決別
日本美術界は嗣治のフランスでの大成功に対する嫉妬もあったのでしょう。結局、戦争責任の責任を取るような形で、日本を飛び出した嗣治は1950年フランスへと戻ります。それ以降、嗣治は死ぬまで日本へ帰国することはありませんでした。
むしろ1955年にはフランス国籍を取得。その後カトリックの洗礼を受け「レオナール」という洗礼名を得てフランス人として生きています。晩年の嗣治は多くの宗教画や礼拝堂の建設と内部のフレスコ画を手がけ、1968年に81歳の生涯を終えました。
真の日本人だった藤田嗣治の人生
いかがでしたか? 今回は日本国籍を捨てフランス人として生涯を終えた「藤田嗣治」の生涯をご紹介しました。若い時から日本を離れ、フランスで大成功を収めた嗣治に日本の画壇は冷たいものでした。それだけでなく、フランスで暮らし始めたばかりの嗣治は、フランス語も喋ることができず人種差別を受けて辛い思いをしたといいます。
そんな中でも嗣治は独特のファッションセンスと積極性で、親しい友人がたくさんできて仲間たちに囲まれるようになったのです。それでも好みの音楽は「浪曲」で「柔道の達人」という生粋の日本人でしたし、日本の画壇からの裏切りに遭いフランス人に帰化した後も、心の中では死ぬまで日本を愛し続けたといいます。
嗣治は、“私はフランスに、どこまでも日本人として完成すべく努力したい。私は世界に日本人として生きたいと願う。”と語ったといいます。
さらに、“日本画壇は早く国際水準に到達して下さい”という言葉を残したといわれています。藤田嗣治は亡くなる最後まで日本人としての魂を持っていたのですね。国際人として世界中を飛び回れる現代にも見習いたい立派な姿勢です。