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津田梅子の生涯、日本初の女性留学生で日本人初ブラジャーを身に着けた女性とも

海を渡った私たちの先輩

近年では「海外留学」や「帰国子女」という言葉も一般化して、外国語の習得や学術の習得のために世界各国へ渡る人も珍しくなくなりました。もしかするとあなたも留学の経験があるかもしれませんね。

今日では私たち一般人でも海外へ行って学ぶ機会が開かれていますが、幕末から明治の頃はそのようなチャンスは非常に稀なことでした。そんな時代に初めて留学した日本初の女性留学生、しかも最年少でアメリカに渡った「津田梅子」の生涯をご紹介しましょう。

津田梅子の生い立ち

津田梅子は1864年、江戸の牛込南御徒町(今の東京都新宿区南町)に幕臣だった父・津田仙と母・初子の次女として誕生しました。

父の津田仙は、今の千葉県にある佐倉藩の家臣で英語・オランダ語を学び、幕府の通訳としてアメリカへ随行するなど海外への関心が高い人物でした。ところが明治維新と共に幕府が崩壊すると同時に官職を失うことになりました。その後1869年(明治2年)には日本初の本格ホテル「築地ホテル館」に就職、津田一家で向島(今の東京都墨田区)へ引っ越すことになりました。

幼い梅子は父の西洋野菜の栽培の手伝いや読書や習字を学んだといいます。

1871年(明治4年)、明治政府が派遣した岩倉具視を大使とした使節団に随行する形で、津田梅子を含む5人の女性がアメリカで留学することになったのです。梅子は最年少で出発した時わずか6歳、旅の途中で7歳の誕生日を迎えたといいます。親元から離れ見知らぬ遠い国へ旅立った梅子は、きっと不安だったことでしょうね。

アメリカでの暮らし

アメリカに渡った梅子は、ワシントンD.C.の郊外ジョージタウンに住む日本弁務官書記(今の日本大使館)のチャールズ・ランマン夫妻のもとで暮らすことになりました。ランマン夫婦は子供がいなかったため、まだ幼い梅子を自分たちの子どものように可愛がったといいます。

梅子も初めは英語が分からず苦労したようですが、慣れるにつれて優しい夫婦のもとで聡明さを発揮。英語やピアノなどを学び、現地の初等・中等教育を修了。学校ではとても優秀な成績を残しました。その後、私立の女学校へ進学し、ラテン語・フランス語などの語学の他にも、自然科学や芸術、心理学を学んでいます。

こうして幼少期から思春期に至るまでアメリカで成長した梅子は、日本人女性として初めてブラジャーなどの洋装下着を着けたといわれています。幼くしてアメリカへ渡った梅子にとっては、それほど違和感はなかったのでしょうか? 彼女の感想は残念ながら記録には残されていません。

帰国とカルチャーショック

1882年(明治15年)、学校を卒業した梅子は18歳で日本へ帰国することになります。アメリカで学んだ知識や教養を日本の女性のために役立てたい、という希望を胸に日本へ帰った梅子でしたが、長いアメリカ暮らしでほとんど日本語を忘れており、母親と会話するのも通訳が必要だったといいます。

また、当時の日本では、女性が活躍する機会はほとんどなく「女は黙って男性に従うのが理想」とされていたため、アメリカで女性が自立して生きている様子を見てきた梅子は大変なショックを受けたのです。そんななか、伊藤博文の紹介で華族女学校の英語教師の職に就きますが、華族のお嬢様たちには自立するために勉強するという気がなく、意気揚々と教え始めた梅子はガッカリしてしまうのです。

そこで「女性が自立するための学校を設立したい」という決意を固めた梅子は、1889年(明治22年)再びアメリカへ留学することを決意。アメリカでは生物学を専攻、後に教授法について研究したり、ヘレン・ケラーやナイチンゲールに会ったりして経験を深めます。

念願の女子英学塾の開校へ

1892年(明治25年)に帰国した梅子は、再び華族女学校に勤めながらも明治女学院での講師、さらに女子高等師範学校の教授などを兼任し、教育者としてのキャリアを積んでいくのです。そして1900年(明治33年)、国内外の多くの協力者の助けを得て念願の「女子英学塾」を開校します。

当初はわずか10人という少人数から始まった小さな塾でしたが、英語教育だけでなく個性に応じた少人数の教育、広い視野を持つことができるような人間の育成など、女性が卒業後も社会で自立していけるような実用的な教育が認められるようになり、戦後は「津田塾大学」となって現在に至ります。

女性の地位向上に貢献した津田梅子

現代の日本では、まだ一部で女性を軽視するような風潮が根強く残されてはいるものの、女性も男性と同じように教育を受けることができ、社会的には男女平等が謳われています。明治時代に子どもの頃からアメリカ留学しホストファミリーの対等な夫婦関係を身近に観察しながら成長し、日本へ帰国した津田梅子にとって、当時の日本の女性の立場の低さには大きなショックを受けたことでしょう。

そんなカルチャーショックにガッカリするだけではなく、「自分の留学経験と教育を日本女性の地位向上に役立てたい!」と諦めずに奔走した梅子には本当に頭が下がる思いです。

梅子が考える女性の地位向上は、単に権利を主張したり要求したりするだけではなく、女性が自らを高めることで聡明さやその能力から周囲の尊敬を得られるように目指すものでした。このような考え方は、とかく女性の権利だけを主張する現代の風潮にも取り入れるべきものではないでしょうか? 

また、今日の女性の地位向上の陰には津田梅子のような高い志を貫き通した人物のおかげでもあります。私たちも同じ女性として今自分にできる最善を尽くしたいものですね!

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