日本人なら大抵の人は、有名な「聖徳太子」とともに歴史の教科書に出てきた「小野妹子」という名前を覚えていることでしょう。子どもの頃には、「妹子」という名前から女性だと勘違いしていた人も多いかもしれませんね。
歴史の授業では、“小野妹子は遣隋使として派遣された人物”として紹介されていますが、あまり詳しく説明されていません。
そこで今回は、今から1400年ほど昔の時代に、海を渡って海外へと派遣された「小野妹子」と、“遣隋使”についてまとめました。
小野妹子ってどんな人?
小野妹子についての記録はとても少なく、何年に生まれいつ亡くなったかについて確かなことは分かっていません。推測によると西暦570~590年頃に生まれたともいわれていますが、詳細は不明です。
小野妹子は現在の滋賀県、「近江国」滋賀郡小野村(今の大津市)の豪族出身で、当時の朝廷での位は、“冠位十二階”の上から5番目である「大礼」という位でした。“冠位十二階”というのは、聖徳太子がこれまでの家柄や身分ではなく“才能”があることを基準にして定められた制度です。
朝廷があった大和国(今の奈良)と、小野妹子の本拠地である近江国とは距離があるためほぼ無名の人物でしたが、その優秀さが聖徳太子に見いだされて”遣隋使”の外交官としての大役を任されたと思われます。小野妹子は二度にわたる遣隋使としての功績が認められて、最終的には、冠位十二階の中で最も高い「大徳」という位に引き上げられました。
「遣隋使」とは?
時代背景
さて、時は西暦600年頃の飛鳥時代、日本で最初の女性天皇「推古天皇」の時代のことです。
今の日本は当時、「倭国(わこく)」として周辺諸国に知られていました。この時代に政治を行っていたのが、推古天皇の甥で「厩戸皇子(うまやどのおうじ)」と呼ばれていた聖徳太子です。
高度な制度を持っていた「隋」
一方、長い期間に渡って南北に分かれていくつもの国に分裂していた現代の中国を、西暦581年に統一したのが「隋」という国です。「隋」は西暦618年までのわずか38年で「唐」に取って代わられるのですが、税制度や科挙(試験制度で官僚を選ぶ仕組み)、軍の整備や大運河建設など、政治的にも経済的にも高度な制度を持っていました。
そこで、当時の先進国であった隋から政治制度や様々な技術を学ぶために、日本の朝廷から隋に派遣されたのが「遣隋使」なのです。隋の時代に「遣隋使」は5回以上派遣されたといわれていますが、小野妹子は第2回目と第3回目の2回派遣されました。
遣隋使としての小野妹子
「日本書紀」の記録によれば、西暦607年に小野妹子は遣隋使として派遣され、当時の隋の皇帝である「煬帝(ようだい)」に謁見し、聖徳太子からの国書を渡しました。この時の書簡が、有名な「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す・・・」から始まる手紙で、“太陽が昇る東の国の天皇が、太陽が沈む西の国の皇帝に手紙を送る”というものです。
隋の皇帝「煬帝」は、この書簡にある「日出ずる処の“天子”」という部分に激怒。「天子」は中国の君主・支配者である皇帝を指す言葉で、格下である倭国が「天子」と対等に名乗ったことに腹を立てたのです。そのことで小野妹子は処罰されそうになりましたが、結局は倭国と手を結んだ方が得策だと判断され無事に煬帝に面会することができました。
当時の船旅ってどんなもの?
当時、小野妹子たちが大陸に渡った「遣隋使船」がどのような船だったかについては、資料が発見されておらず詳細は分かっていません。ただ、その当時は船の技術が未熟で発達していなかったため、命がけの航海だったといわれています。
「遣唐使船」によると…
資料が残っている「遣唐使船」では、一度の航海に2~4隻の船が“船団”を組んで出帆したとされています。当時の船は丸木舟をベースにして大陸からの断片的な技術を寄せ集めて作られた脆弱なものだったため、外海での荒波に弱く事故や遭難が多かったといわれています。
そこで、4隻で出帆して1、2隻がたどり着けたらいいように・・・、という安全対策として船団を組んでいたようです。
大阪から大陸を目指す旅
出発地点は大阪の住吉大社近くの住吉津の港、そこから今の細江川から大阪湾に出て、大阪市中央区から北区あたりにあったとされる「難波津(なにわつ)」を経て瀬戸内海を九州の「那の津」(福岡市)へ向かい、そこから玄界灘に出て大陸へ向かいました。
記録によると、「遣唐使」の航海の成功率は片道約50%、往復では25%ほどの確率だったといわれています。そのことを考えると、遣隋使として2回も隋に派遣され、2回とも無事に帰国することができた小野妹子は勇敢、かつ強運の持ち主ということができるかもしれませんね。
日本の発展に貢献した小野妹子
いかがでしたか? 歴史の教科書の中ではそれほど詳しい説明がない「小野妹子」。
歴史的な書物の中でも人物像に関する詳しい記述が少ないのですが、ほとんど無名だった彼が聖徳太子に任命されて遣隋使の外交官として遣わされたことや、一度ならず二度までも遣隋使として大陸に渡ったことを考えると非常に優秀な人物だったことが推測できますね。
また、当時の船の性能と航海の技術の低さから遭難する確率が高く、無事に帰国できる可能性が25%と低かったにもかかわらず、2回とも無事に帰国できた強運の持ち主でした。
このように勇敢に海を渡って中国との国交を結ぶことに貢献した小野妹子の勇敢なはたらきのおかげで、日本は経済的にも文化・技術的にも発展することができたのです。